インタビューの湯

日本一あったかいインタビューの湯_Vol.9

「本当にその人生で良いのか?」と問いかけたい

フリーランス:赤森 淳さん(仮名)

聖書にこそ答えがあるとわかった

淳さんは大学3年生の時に聖書を学び始めたそうですが、どのようなきっかけだったのですか。

もともと中学校がミッション系の学校だったので、聖書の授業があったり、朝に牧師の方の話を聞いたり礼拝を捧げる時間がありました。でも、聖書の授業はあくまでテストのために勉強していたし、テストが終わったらすぐに忘れるという感じでした。

ただ、幸せとはなにか、人間としての正しい生き方とはなにかについて徐々に考えるようになり、色々と本を読むようになりました。それでも自分の軸になりえるものはなかなか見つからなかったのですが「何か」に答えを見出すのではなく「誰か」に答えを見出したい、つまり基準となる人を見つけたいと思うようになったときに、ふと聖句が2つ思い浮かぶようになったんです。

それが「隣人を愛しなさい」という聖句と、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という聖句でした。イエス様について中学校と大学で少しだけ学んでいたのですが、悪い事はしていないけど、罪人のために、自分を殺す人のために最後祈って死んでいかれた人、という印象はありました。それから、自分の基準が「イエス様」になりました。

自分は逆に隣人を恨んでいたというか(笑)小さい頃からサッカーをしており、朝から晩まで壁に向かってボールを蹴っていて、隣の家の人に注意されたこともありました。あの時は隣人に対してちょっとイライラしていましたね(笑)

自分のそばにいる人を愛する、そして、全ての人を愛する精神は持っていなかったと痛感し、自分を犠牲にしてでも正しい生き方や正しい心を持てるように導いてあげる人になりたいと思った時に、「聖書に答えがある」と感じるようになりました。

すごいですね。単純に聞きたいのですが、幸せとか生き方について考える何かきっかけはあったんですか。例えば、何か辛い事があったり、部活で揉めたりといった事があったとか。

全然そんな問題とかはなくて。先ほど話したように、幸せな人生についてなどを常に考えていたし、答えを見つけるためにノートに色んな事を書いたりしながら、探し求めている時にふと、聖句2つが稲妻のように思い浮かんだという感じでした。

なるほど。でも、日本人って聖書に抵抗がある人が多いと思うのですが、淳さんは抵抗がありませんでしたか。

聖書に関しては全く抵抗がなかったですね。中学校の時から触れていたし、大学でも校舎の中に聖句があって。自分がケガして大変な時に学校のグラウンドに行く途中に「忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」という聖句が壁に書いてあって、その聖句を毎回見て「よし、頑張ろう」って力づけてもらっていたこともありました。

物事を見る視点、サッカーのプレーが変わった

ある意味そこからもう神様に導かれていた感じがしますね。話を聞いていると、淳さんは聖書に出会う前から素晴らしき善人という感じですが、聖書を学んで変わったことはありますか。

愛の実践に関して、自分の実践範囲が広がりましたね。

例えば、サッカーでいうと、高校の時は監督から「サッカーはルールのある戦争だ」と学んでいて、当時は確かにそうだなと思っていました(笑)でも、元々自分が相手を傷つけたりすることはもちろんなくて、相手を倒せば必ず謝ったり、倒れた人がいたら助けたりとかはできていましたが、聖書を学んでからは心から人を愛するサッカーに挑戦したり、相手を生かすプレーが少しずつできるようになったのかなと思います。

さらに、自分が変化したなと痛感した出来事がありました。大学4年生の時に、サッカーの試合中、自分たちがピンチの時に相手にあえてファウルし、相手のカウンターを防ぐプレーを味方の選手がしました。そのプレーで確かに僕らのチームはピンチを免れましたが、そのプレーは相手選手を確実に傷つけるし、なにより神様の願うサッカーではないと思い、僕はその味方選手を全体の前で注意しました。それまではサッカーで人に注意することなんてありませんでした。ただ、その当時、僕はすでに聖書を学んでおり、みんなには「このプレーが正しいと思ってほしくない」と思い、伝えました。

聖書を学んでから、神様から見て何が良くて何が悪いのかを正しくわかってサッカーができるようになりました。これは自分の中で大きく変わったところだと思います。そして、このように神様視点で考えることは、サッカーだけではなく、日頃の生活における様々な場面でも大切だと思います。

神様はすべて見てくださっている

物事を見る視点が変わり、プレーも変わっていったということですよね。素晴らしいです。因みに、これまで御言葉を学んできた中で一番神様を感じたエピソードはありますか。

一度、神様を信じきることが難しいと思ったときがありました。自分の中でもっと早くから聖書に出会って、神様に全部自分の人生を投資したかったなっていう後悔があったんです。今までサッカーをやってきたこと、大学で資格を取ったことなど、過去に神様と関係なくやってきたことを後悔したり、自暴自棄したりする時期がありました。

淳さんにもそんな時があったんですね。

そんな時、ふと夢を見ました。御言葉を教えてくれている牧師先生が出てきて、一緒にサッカーをしてくれたり、シュートを一対一で教えてくれたりしました。

かなり長い夢だったのですが、その夢の中で牧師先生は「神様はあなたが今までやってきたことも全て共にしていたし、見ていたよ」ということを夢の中で教えてくれました。それまで自分は、少なくとも聖書や御言葉に出会う前は神様と共にできていなかったし、出会った後も、自分が生活で神様を忘れることもあり、自暴自棄に陥ったり、罪悪感すら感じたりすることがありました。

しかし、自分が聖書に出会う前からいつも神様は共にしてくださっていたんだなということを、夢を通して悟らせてくださったときに、自分が救われた感じがして、神様が全て導いてくださったんだなというのを感じるしかない経験でした。

素晴らしいですね。現在、淳さんはフリーランスという組織に属さない生き方を経験されていますが、今後どうなっていきたいとかありますか。

う〜ん、わからないですね(笑)自分が思っていた未来とは全く違う今があるので。また、自分の考えと神様の考えも全く違うので。でも、御言葉がなければ、どんなことをしても実を実らせることができない、価値ある事は成せないと今は思っているので、自分が将来どういう働き方をするかはわからないんですけど、どんな仕事をするにしても、絶対にこの御言葉を中心にして、そして御言葉を伝え広げていく人になっていきたいなとは思っています。

なるほど。今御言葉伝えること以外ではまっているものはありますか。

あえていうなら、キャンプとかですかね(笑)実は、キャンプ道具はすでに沢山揃えています。人間としての正しい生き方、本来の生き方とはなにかを考えていた頃に、より自然に密接して、野生的な生き方をしたときになにか答えが見つけられるのではないかと思い、キャンプ道具を買い揃えました(笑)あと、自分がフリーランスとして生活して、たとえ家が無くなったとしても生きていけるようにはなっておこうと思っていたんです(笑)

ワイルドですね!そんなワイルドな淳さん、このインタビュー記事を読まれる方々に何か一言伝えるとすると何を伝えたいですか。

「本当にその人生でいいのか?本当に幸せなのか?」ということを問いたいですね。

僕自身、そういう問いをいつも自分にしてきたし、そういう問いを周囲に投げかける人生を歩みたいと思っています。自分が死んだときに自分という人間がその人の心と考えに残って受け継がれていく、そういう人生を歩んでいきたいです。

最後の質問です。「あったかい」という主真愛教会のフレーズがありますが、淳さんにとってそのあったかさとはなんですか。

本当の意味でのあったかさっていうのはやっぱり神様の愛だと思います。

例えば、誰しも人に良くすることはできると思います。でもそれは、人間の次元での愛でしかなくて、それを遥かに超えた、神様が天地万物を創造なさったときから今に至るまでの愛から生じるあったかさっていうのは全く違うものだと思うんです。

同じようなあたたかい挨拶、手助けだとしても、自分の思いだけではない神様の思いがそこに添えられた時、本当のあったかさが生じるんだと思います。

それができる人に自分はなりたいし、だからこそもっと神様の愛を学ばなければいけない、その愛によって自分自身を作らなければいけないなといつも思っています。

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